翻訳と辞書
Words near each other
・ 1966年バレーボール男子世界選手権
・ 1966年世界体操競技選手権
・ 1966年中華民国総統選挙
・ 1966年全仏テニス選手権
・ 1966年全仏選手権 (テニス)
・ 1966年全米テニス選手権
・ 1966年全米選手権 (テニス)
・ 1966年全豪テニス選手権
・ 1966年冬季ユニバーシアード
・ 1966年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)
1966年日本グランプリ (4輪)
・ 1967-1968シーズンのNBA
・ 1967年
・ 1967年NFLチャンピオンシップゲーム
・ 1967年のAFL
・ 1967年のF1世界選手権
・ 1967年のJSL
・ 1967年のMLBオールスターゲーム
・ 1967年のMLBドラフト
・ 1967年のNFL


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

1966年日本グランプリ (4輪) : ミニ英和和英辞書
1966年日本グランプリ (4輪)[1966ねんにっぽんぐらんぷり]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
日本 : [にっぽん, にほん]
 【名詞】 1. Japan 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [わ]
 【名詞】 1. ring 2. hoop 3. circle 

1966年日本グランプリ (4輪) : ウィキペディア日本語版
1966年日本グランプリ (4輪)[1966ねんにっぽんぐらんぷり]

1966年日本グランプリは、1966年5月3日富士スピードウェイにて決勝レースが行われた。正式名称は「第3回日本グランプリ自動車レース大会」。
== 概要 ==
3回目となる日本GPは本来ならば1965年5月に開催される予定だった。主催者の日本自動車連盟(JAF)はF2/F3レースをメインイベントとする方向で準備していたが、1964年10月に突然開催中止を発表した。「グランプリの開催は時期尚早であり、国内自動車クラブの育成が先決である」との理由だったが、JAFと鈴鹿サーキットの交渉が金額面で決裂したためとも報じられた〔林 『富士スピードウェイ 最初の40年』、p30(『CARグラフィック』1964年12月号記事の要約)〕〔当時JAFでモータースポーツ業務を担当していた本田耕介(のちのビクトリー・サークル・クラブ (VICIC) 会長)は、鈴鹿側の要求金額が1500万円から5000万円に跳ね上がったと述べている(出典:『カーグラフィック2007年9月号』、p243)。〕。中止となった日本GPの代替イベントとして、1965年7月に船橋サーキットで全日本自動車クラブ選手権(通称「船橋CCC」)が開催された。
1966年に日本GPが再開されることになり、鈴鹿サーキットに代わって新設の富士スピードウェイが開催地となった。車種・排気量ごとに細かく分けていたレース方式を廃止して、60周(360km)のメインレースに一本化し、今回から正式にグランプリ賞典を懸けることになった。高性能スポーツカープロトタイプレーシングカーが出場し、レースの途中には燃料補給のためのピットインも必要となった。また、サポートイベントとして特殊ツーリングカーレースとGTカーレース、エキシビジョンとしてフォーミュラカーレースも行われた。
第2回大会で盛り上がった自動車メーカー対決は仕切り直しとなり、別分野へ転向したりワークスチームを解散したメーカーもあった〔ホンダはF1に参戦、三菱はフォーミュラ・コルト路線に転向、東洋工業ロータリーエンジンで海外ツーリングカーレースに参加。富士重工はレース部門を解散し、鈴木自工は一時レース活動を休止した。〕。プリンスは国産初のプロトタイプレーサーR380を4台投入。トヨタヤマハと共同開発した2000GTのプロトタイプをレース仕様に改造。ダイハツコンパーノ・ベルリーナベースのP-3でクラス優勝を狙った。日産は前哨戦の全日本クラブマンレースに続き、6気筒DOHCエンジンを搭載するフェアレディS〔日産・フェアレディSは日本GP出場後一般公開されたことがなく、幻のマシンと呼ばれる。開発経緯については、ヤマハとの関係など謎が多い。参考サイト:日産の歴史-謎のマシン- 〕で参戦した。
外国車に乗るプライベーター勢の中では、滝進太郎ポルシェ・906と酒井正のシェルビー・デイトナが注目された。第2回大会のGTクラスでポルシェ・904プリンス・スカイラインGTが敗れたことからR380が誕生したという経緯があり、ポルシェ対プリンスの再対決に関心が集まった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「1966年日本グランプリ (4輪)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.